日本一の達磨さんに願いを込める 【禅宗 富士見山 達磨寺】

達磨さん一代記


達磨さん一代記・題目 生い立ち
今から約千五百年ほど前、四世紀の終わりごろ、インドの南の方に香至(こうし)国(カンチープラ)という小さいけれども豊で、平和な国がありました。この香至国王に三人の賢い王子がありました。第一王子を月浄多羅(げつじょうだら)といい、第二王子を功徳多羅(くどくどら)、第三王子を菩提多羅(ぼだいだら)といって、この第三王子が、後の達磨大師となったのです。
王子は、七歳の頃すでに三蔵(仏教の教えのすべてをまとめた教典)を読破し、その内容を深く理解しておりました。またよく坐禅をしていたので、人は皆、「王子は観音様の生れ変りではないか」といったほどです。

法宝第一

達磨さん一代記・法宝第一 丁度その頃、般若多羅尊者(はんにゃたらそんじゃ)という偉いお坊様が香至国を訪れました。このお方は、お釈迦様から二十七代目の法灯を嗣(つ)がれ、東インドの方から各地を説法しながら、この国にやってこられました。香至国王は大変信心深い方なので、非常に喜んで尊者をお城に迎え、その教えの素晴らしさに、心を打たれ、お帰りの時、王様の宝物の中で一番大切にしていた宝珠を差し上げたのです。最後に尊者は三人の王子に会いました。尊者は一目で賢い素晴らしい王子であることを見抜かれ、王様から頂戴した宝珠で、王子たちの智恵のほどを試されたのです。尊者は、王子たちに宝珠を示して、質問されました。
第一王子は、
「これは最高の珠です。この世で、これに勝る宝はないでしょう。尊者のような徳の高いお方でなければ受けることの出来ない宝物です」と答えました。
二番目の王子は、
「まったく兄のいう通りです。尊者にふさわしい贈物です」と答えました。
尊者は三番目の菩提多羅王子も兄達の答えのまねをして答えると思っていたのですが、
「これは本当に立派な宝物ですが、最上の宝物ではありません」と答えたので、皆びっくりしてしまいました。
「宝物の中で最上のものは、お釈迦様の説かれた真理『法宝』です。これが第一です。光の中では智恵の光が一番輝いて最上です。明りの中では、心の光が一番暖かで最上です。いくら立派な宝珠でも自ら輝き、他を照らすことはできません。しかし、お釈迦様の教えは違います。それ自体が輝かしく、そして人々の心を照らし、豊かなものにして下さいます。これはどの宝物は他にないでしょう」と答えたので、尊者は、菩提多羅王子の答えにすっかり感心し、この王子こそ私の後を嗣ぐにふさわしい者だと、心に思われました。しかし、王子は十歳にも満たない子どもであるため、王子が法を嗣ぐにふさわしい年齢になるまで待っても遅くはないだろうと王子の成長を期待して城を出たのです。

西天二十八祖

達磨さん一代記・西天二十八祖 父、香至国王が亡くなって七日間の禅定を修した後、菩提多羅は、釈迦直伝の仏法をついだ二十七代目の祖、般若多羅尊者について正式に剃髪得度を受け、仏弟子となり、菩提達磨と命名されました。
ボダイダルマとは、サンスクリット語のボダイダハルマを音訳したもので、「通天と義され透徹した知性を備え、諸々の道理に通達する大力量を備える」という意味です。
般若多羅尊者のもとで四十年の修行をつんだ菩提達磨は、仏祖釈迦より嫡々相承(てきてきそうじょう)されて来た伝灯を嗣ぎ、二十八代の祖師となります。後に、禅宗では「西天の二十八祖」と呼ぶようになります。
●釈迦が霊山会(れいざんえ)上で説法されたとき、大弟子の摩謁迦葉(まかかしょう)に伝えられました。言葉ではとうてい伝えようもない釈迦の真実は、以心伝心で伝授され、以来一器の水を、一滴も残さずこぼさず一器に移すように釈迦の真実の心が師から弟子にと伝えられました。
●般若多羅尊者が亡くなった後、南インドでは、無得(むとく)宗、寂定宗、有相宗、無相宗、定慧宗、戒行宗の六つの誤った教えを説く宗派がありました。これらをことごとく論破しすべてを正法に帰衣された達磨の名声は全インドに広まりました。
●仏教国インドでも、この頃すでに、破仏が始まっていました。故郷、香至国でも、兄、月浄多羅王の後を継いだ甥の異見王が排仏を行います。
●故郷に帰ったダルマは、異見王にその非を諌め、真理を説いてついに帰仏せしめました。
●先師、般若多羅が逝(い)かれて、六十七年、インドにおける遺命を全うしました。
●先師につかえること四十年、南インドにおける布教六十七年。
●いま一つの遺命である中国に渡ります。シルクロードにするか、海路にするか。(敦惶からの出土本によると、ダルマはシルクロードを通ってきたペルシャ憎の説もあります。)
●先師、般若多羅尊者の墓に別れを告げ、海路交易船に乗り、各地に寄港しながら、三年の歳月を費やしてついに中国に着きます。

梁武問答

達磨さん一代記・梁武問答 先師、般若多羅尊者の遺命を果たすため、中国に向かった達磨は、三年の歳月の後、着いたのが梁の国南海の港でした(西暦五百二十年、現在の広東省広州)。当時、梁の武帝は、仏心天子といわれ、大層仏教に帰衣していたので、達磨を招いて禅問答をします。
武帝 「如何にして衆生を済度するおつもりか」
ダルマ 「一字の教えも、もっておりません」
武帝 「余は、即位以来、多くの立派な寺を建て、数多くの憎たちを供養し、大法会を催し、さらに日々写経にも励んで来た。余に、どんな功徳があろうや」
ダルマ 「無功徳」
武帝 「何故、無功徳なりや」
ダルマ 「帝の行為は確かに素晴らしいですが、それは形の上のことだけで、まだまだ真実の功徳と言われるものではありません。それは、ちょうど形に従う影のようなもので、うわべの形だけのもので、中味のない幻のようなものです。本当の功徳というものは、浄らかな心、素直な心で、世に求めて得られるものではございません。唯よきことを行うことです。それが仏心天子の名に値するものでございます」
武帝 「さらに聴くが、如何なるか聖諦(しょうたい)第一義」
達磨さん一代記・梁武問答(2) 聖諦とは、聖なる真理、すなわち、仏法の最上のことわり。
ダルマ 「廓然無聖」
廓然(かくねん)とは、大空がカラリと晴れて、空中一点の雲もなく、広々した様子にて、心の中に何のわだかまりもない事。無聖とは、悟りもなく悟った人もない、聖もなく俗もない、有難いとか、有難くないところとかにこだわらないカラットした大きなものの意。
武帝 「余に対するものは誰ぞ」
ダルマ 「不識」
あたなはどんなお方ですかと問われ、「かくかくしかじか」と答えれば、それは言葉というものが間に入ってしまう。すなわち、自己を説明することによって自己を離れてしまいます。
問答の結果、武帝はどうしても達磨の真の心が理解できませんでした。師、般若多羅尊者の遺命を守り、寒暑三周三年の苦難の旅を経て、南インドより、中国にやって来た達磨にとって、最初の求道者、武帝は、「縁未だかなわず」達磨はひそかに梁の首都金陵を去る決心をしました。

一葦渡江

達磨さん一代記・一葦渡江 ある夜、静かに、梁朝を辞した達磨は、金陵から北に向かいました。途中、揚子江を渡るのに葦の葉に乗り、法力をもって、長江を渡る夜風に衣をなびかせ、半輪の月の光を受けながらひょう然として未知の奥地に向かう外国憎達磨の胸中や如阿がだったのでしょう。

九年面壁

達磨さん一代記・九年面壁 北魏の都、洛陽に上肢、天下第一と言われた嵩山(すうざん)少林寺に止宿することになった達磨は、山中の少林寺の石室で終日ただ黙然として、面壁坐禅の道に入ります。
達磨大師の仏弟子として最初に仕えた慧可(えか)について
幼名、先のち神先と改める。神先の頭は、換骨の為、五つの山が並んだようにデコボコになる。
「中国に、五岳と呼ばれる五つの名山かおる。お前の頭は仏の導き、その五岳の一つの崇山に少林寺あり、達磨和尚を尋ねるがよかろう」と師の宝静禅師に言われる。
達磨に仕えることを六年許されず、自ら左肘(ひじ)を切断して赤心を示しついに許され、名を慧可と改めます。梁の武帝に迎えられるも未だ機縁熟せず北方嵩山に篭り面壁九年ついに慧可という伝灯を伝えるべき弟子にめぐり会えたのです。

結果自然成

達磨さん一代記・結果自然成
吾本来茲土 われこの土に来たり
伝法救迷情 法を伝え迷情を救う
一草開五葉 一華(け)五葉を開き
結果自然成 結果自然(じねん)になる

隻履帰天

達磨さん一代記・隻履帰天 達磨の説く新しい仏教大乗禅をよく思われず、しばしば妨害を受けます。彼らによって六度目の毒を盛られたとき、坐禅のまま命尽きたといわれます。
時に、西暦五百二十八年十月五日、年齢百五十歳と伝えられています。達磨の遺髄は熊耳(ゆうじ)山というところに葬られました。その後、魏の国の宋雲という人が西域に遊んで帰る途中、葱嶺(そうれい)を西に向かって旅している片方の履(くつ)をもった達磨に会ったので、問いかけると、
「中国での私の用事は終ったので、これから故郷のインドに帰ろうと思う」と答えたそうです。
宋雲が帰朝して、孝荘帝に奏上すると、帝は早速家臣に命じて調べさせたところ、空の棺(かん)の中に片方の履(くつ)だけ残っていたと伝えられています。
中国禅宗の初祖と呼ばれるボダイダルマは、後に、唐の代宋皇帝より、円覚大師という名を送られました。日本では、普通、達磨大師と呼ばれています。


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